【Libido theory.】

 

 

そんな、馬鹿な。

心拍数が上昇している自覚があった。

今しがた耳にした事柄を胸中で否定しながらも、もしそれが事実だとしたらそれ以上に確実な手法は無いだろうと何処かで納得する自分を認めながら、震える指先を握りしめて一護は薄暗い外科病棟の廊下を早足で歩く。

ブルーのビニルサンダルの足音を極力、潜めて。

 

真夜中の院内は昼間の気忙しさが嘘のように静かだ。

時折、何処からか患者の咳き込む声や、見回りの看護師が控えめにドアを開ける音が遠くで聞こえる程度。ひっそりとした見慣れたはずのリノリウムの廊下が、何処までも闇に繋がっているような錯覚を憶えて、一護はふるりと躯を震わせ、辿り着いた喫煙コーナの自販機にコインを入れると砂糖・ミルク入りのホットコーヒーのボタンを押した。

5つ並んだ赤いランプが、『できあがり』と書かれた緑のランプへとひとつずつカウントされていくのを見遣りながら、先ほど外科部長である藍染の部屋で耳にした事柄を反芻する。

 

きちんと閉じられないままのドアから、明かりが漏れていた。

人、ひとり通れるほどの隙間から何気なしに中の様子を窺って、ドアに手を掛けようとした矢先、パテーションの向こうから藍染と、誰かもうひとり男の声がして、一護はドアノブに触れた指を引いた。

別段、取り急ぎの件では無かったがこの大学病院の医学部を出てそのまま残った一護に何かと目を掛けてくれている藍染に、臨床データの研究経過を見て貰おうと詰所を出て、未だ構内に居るはずの温厚な上司の元を訪ねただけだった。

何時も眼鏡の奥で柔らかく微笑んでいる眼差しの藍染は、誰からも慕われる理想の上司であり、その技術も人柄も一護の理想の医師そのもの。尊敬の念は十二分にあったし、信頼もしていた。

なのに。

先ほど、ドアの隙間、パテーションの向こうから聞こえた、あの話は本当なのだろうか?

 

ピピ、ピピ、ピピ。

控えめな電子音がして自販機の『できあがり』の緑色のランプが点滅。

プラスティックのカヴァを開けて紙製のカップを取り出すと、嘘臭いミルクの香りが薄暗闇に散った。冷たい指先に馴染む小動物のような温もりを両手で包んで喫煙所の合皮シートの長椅子に腰掛ける。

肘掛けのところに小さな焦げ痕。

如何にも大学付属病院の備品、といった風情の椅子に身を預けると一護の中のわだかまりが鳴くように、ぎぃ、と背もたれの辺りが軋んだ。

ぎゅ、と眼を閉じて溜息。

どうするべきだろう?一護ひとりで真偽のほどを図るには余りに重大且つ危険なことだ。先ほどの会話が事実だとすれば、倫理観を崩壊させているのは温厚な上司ひとりではない。

ひとりで出来得ることでも無い。

 

カップを口元に運んで、ひとくち啜る。

人工甘味料の味が舌先で解けた。

カップの中の薄い液体を眺めて、ふと視線を上げた一護の視界の端に暗闇以外の気配。

廊下の向こうから、足音が聞こえた。

かつん、かつんと闇を渡って此方のほうへ。

見知らぬ男だった。白衣でもなければ作業着でもない。闇色のスーツを着て、それと相反する色の髪色をしている見たこともない男。こんな夜中に?あからさまに怪訝な視線を遣った一護に向かって、近づいてきた男は軽く会釈をするとドリンクの自販機に並列する煙草自販機にスーツのポケットから取り出したコインを入れてメンソール煙草のボタンを押した。

男はそのまま新しいパッケジから一本、煙草を抜き取って銜えるとスーツのポケットから百円ライタを出して、擦った。

じじ、と紙の燃える音。

焔に浮かび上がる薄い色素の横顔。

特有の薄荷の匂い。

細い煙を吐きながら、男は一護に向き直ると薄く嗤って一護の隣を顎でしゃくった。

「其処、座っても良い?」

 

ざわり、一護の項が粟立つ。

この、声。

聞き違えるはずがない。

 

 

ゆっくりと流れる白い煙が、一護と男の間を繋いでコーヒーに溶けるクリープみたいに消えてゆく。

向けられた言葉の内容を把握する以前に、聞き覚えのあるその声に一護は胃の辺りから込み上げる感覚を堪えて目の前の男を凝視した。背筋をざわめかすその感覚は『畏怖』というのだろうか。別段強面なわけではない、むしろ端正と云って然るべき顔立ちの男なのに、見下ろす双眸は不思議な色彩を湛えて一護を捕捉した。

「お隣、良いスか?」

少し目を眇めて、男はもう一度一護に問う。

話を聞いていたのが、知られたか?

否、そんなはずは無い。出来得る限り気配を殺して藍染の部屋の前を後にした時、部屋の中の会話は途切れずに続いていた。此処に至るまでにも誰にも会わなかった。

男は、知らないはずだ一護が彼の『商談』を耳にしたことなど。

「ドウゾ

一護は眼を逸らさずに、ほんの少し躯を右側へとずらした。声は若干の掠れを伴っていたけれど。

「ドウモ」と首を傾げてにこりと貼り付けた笑みを寄越し、人ひとりぶんのスペースを空けて男は一護の左隣に腰掛けた。

ぎし、と長椅子が鳴く。

「学生サンですか?」

「否

「じゃぁ、夜勤中スね」

「ええ、まぁ

「大変ですねぇ。こんな夜中にまで」

「週末よりは、幾分かマシですけど」

当たり障りのない会話。「アンタは何の御用でこんな夜中に此処へ?」と聞いてしまえたら、来院の用件を知らなければどんなに気が楽だろう。男が指先の煙草を銜えて軽く吸う、先端の焔が赤さを増して男の眼に映り込んだのが垣間見えた。その眼の色は薄い緑の虹彩を持つ。不思議な色だな、と一護が思ったとき不意に男の視線が流れ、一護の視線を絡め取って、にぃ、と嗤った。

ッ、」

咄嗟に眼を逸らして一護はカップの液体に視線を濁した。

離れなければ、と一護の中の誰かが警告する。

「アタシはね、外科部長サンとお話があってこんな夜中に御邪魔したんですよあのひと、忙しいひとですからねぇ」

アタシもどちらかというと夜型ですし。

云って、一護と男の間にあるアッシュトレイに灰を落とす。

「キミ、名前は?」

唐突に名を問われて一護は弾かれた様に男を見た。

どくん、と心臓が嫌な鼓動で脈打って一護の血の中に不確定な不安要素を撒き散らし始める。

喉の奥から何かが迫り上がる感覚。

知られていないはず、気が付かれていないはず、一護が偶然にも男の正体を知ってしまっていることなど。外科部長が移植のための臓器を眼の前の男から『買い付けている』事実を知ってしまったことを。

……アタシは、浦原って云います。藍染サンとは仕事上、結構長い仲でしてね、何時も御贔屓にしてもらってるンです」

名を問われて答えないままの一護に敢えて触れず、浦原と名のった男は吸いかけの煙草をアッシュトレイで揉み消した。そうして、前屈みに肘を膝の上に乗せ一護の方へ向き直ると潜めた声で間近から一護を見あげ、言葉を継ぐ。

「キミ、ドナーカードは持ってる?」

眼を見開いて息を呑んだ一護に、浦原は薄い唇を引いてまるで甘美な睦言の様に囁いた。

「沈黙は金っスよ?黒崎一護サン」

黒いコートの腕を伸ばして、一護の唇にまるで子供に『しぃー』と沈黙を促す様な仕草。

唇に微かに触れた男の冷たい指先は新しい煙草の匂いがした。

 

 

 

 

 

 

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