「なあ、オイ。浦原?」

3日に一度は勝手知ったるこの部屋で昼休みを過ごすようになった黒崎が、ソファの上でいつもとは少し様子の違う部屋の主を覗き込む。焦点があっているのかいないのか解らないような眼差しの浦原が黒崎を見上げた。

「夢を、見てたんですよ」

「夢?」

惚けたような薄翠の眼を見返して、黒崎が「怖い夢なら『ばくばくばく』って云うと貘が悪夢を食べてくれるんだぞ」と得意げに根拠のない非科学的豆知識をひけらかす。

口端だけで笑って、浦原は素直にその呪文じみた言葉を呟いてみた。

そのまま、眼を閉じて起きあがる様子の無い男に、子供は怪訝な表情で再度「浦原」と名を呼んだ。

返事は、無い。

呪いの効果は薄い様子。

やがて待ちきれなかったのか浦原の上に溜息が落ちて、黒崎が遠離る気配。

浦原は寝転がったまま、細い手首を掴んで黒崎を繋ぎ止める。

「何だよ?」

「キミの知らない景色を、知ってます」

眩しいのもを見るように、眼を眇めた浦原が下から黒崎の眼を覗き込む。

「そりゃ、アンタのが歳喰ってんだからトーゼンだろ」

唇を尖らせた子供が掴まれた手を振り解こうと、緩く力を込めた。

だが手首に絡んだ腕はほどけない。

黒崎の小さな苛立ちが、眉間の影になって現れる。

「何が云いてぇの?アンタ」

「キミは、どうしてそんなに透明なの?」

何時かその眼も見えなくなるのなら、いっそいま此処で濁らせてしまいたいくらいに透明。

濁らせてしまいたい。

ものすごく。

理由なんか、わからないけれど。

勝手でしかない思考のままに、浦原は黒崎の掴んだ手首を力任せに引き寄せると、自分が転がっていたソファの上に細い躯を縫い止める。

予測範囲外の浦原の行動。

黒崎はのしかかる男をその眼光で射抜いた。

「…っ、てぇなッ!イキナリ何しやがる!」

「ね、どうして?」

ぎ、とソファのスプリングが二人分の加重に軋る。

静かな深い眼差しが黒崎の眼を探って、力任せに拘束する腕が抵抗を奪う。

少しだけ怯んだ様子を垣間見せつつも、黒崎は焔みたいな眼で浦原を睨みつけた。

「アンタこそ、なんでンな死んだ魚みてぇな眼してやがる!」

噛み付く勢いで言葉を吐き出した黒崎に、大人気無いなと自覚しつつ浦原は薄く笑って真相を告げる。

「人殺しの眼は、こんなモンですよ」

低く至近距離で囁かれた台詞にきっと子供は畏れを浮かべるだろう。

そう予測した浦原を裏切って、黒崎のブラウンの眼には静かで強い意思が変わらずに宿っていた。

何処までも澄んだ眼は、浦原の心を穿ってその闇すらも透かす。

「アンタのが『人殺しの眼』なら、俺の眼は『人殺し予備軍の眼』だな」

真っ直ぐに浦原を見上げる黒崎の顔には、覚悟を知る者の表情があった。

「アンタが空で何を見てきたのか知らねーけど、」

ぎ、とのし掛かる男を射抜く眼差し。

「ガキだからって、俺たちが何も知らねーと思うな」

怒りに潜めた、その感情は何?

見蕩れるように眼を見張った浦原が、黒崎の眼を読み解こうと意識を凝らした、その刹那。

「いい加減、重てーっつの、変態淫行ヘタレ教官!」

ごっ、と鈍い音。

鼻っ柱にまともに頭突きを食らった浦原は「ごふッ」という呻き声とともにソファに撃沈。

倒れ込んだ男の躯下から這い出した黒崎は、へん、と顎を突き出し「いい気味だぜ」と悪態をつくと、押さえ付けられていた手首をこきこきと鳴らした。

「くろさきさん…ヒドイ…」

ううう、と鼻を押さえて恨みがましい視線をとばしてくる浦原に、黒崎は不敵な笑み。

「基本だよな。『first look,first shot,first kill』空戦の極意は先手必勝」

「ココ、地上ですから…。ああ、もう…痛い…」

「喧嘩の極意も同じだし」

「アタシはキミと喧嘩したかったわけじゃないっスよ…」

ごろりとソファの上で仰向けになった浦原が涙目のまま、頭上で踏ん反り返る黒崎を見上げ、すん、と鼻を鳴らす。

「だって、アンタ大人気ねーし」

ふい、とそっぽを向いた黒崎の耳朶が、ほんのりと赤く染まっているのを眺めて浦原は諦観の溜息を零した。

浦原の中の暗い部分を直視しても、それでも怯まない彼が眩しい。

強かに打った鼻筋をひと撫でしてその手を右眼の上に宛がい、浦原は黒崎の名を呼んだ。

「こうするとね」

右眼を手で覆って、もう片方の眼だけで頭上の人物を見上げる。

黒崎が此方に顔を向ける気配がした。

「キミの顔…表情が見えないんスよね」

「あ?」

「ぼんやりとした像は解るンですが…表情が読めない。」

諦めたように掠れた笑みを浮かべ、そんなことを云う浦原を覗き込むように躯を屈めた黒崎がソファの肘掛けに右腕を乗せる。

じっと浦原の左眼を見詰めて、コレと云った傷のない目許と薄翠の虹彩を確認。若干、焦点が合っていないその瞳。

「アンタ、左眼…見えねぇの?」

「光は認識出来るんスけど…なんていうか磨り硝子越し、て感じ」

「それって、」

飛べるのか?という言葉を黒崎は飲み込んだ。

たぶん、きっと、飛ぶことは出来る。

隻眼であっても短時間のフライトならば、離着陸さえ気を配れば可能だろう。

だが、戦闘機のパイロットにとっての『飛行』は『戦う』こととイコール。

総てに神経を張り巡らせ、眼を凝らし、一瞬の判断で明暗が分かれ間違えば刹那で魂が乖離する。

飛行技術の指導ならば程度によっては可能だろうが、実戦となると、おそらくは…。

口を噤んで何かを堪えるような表情をする黒崎を右眼に映し撮って、浦原はその頬に指を伸ばした。

「ごめんね?」

「なんで、アンタが謝んの?」

「今日は大人げないとこばっかりだ」

そんな顔、させたかったわけじゃ無いんスよ。

柔らかく、黒崎の頬を摘んでもう一度「ごめんね」と囁く。

「んなの、今更だろ…アンタって、皆が云うほど出来た人間じゃねーし」

「鋭いっスね、黒崎サン」

「寝汚いし、甘えただし、セロリも山椒も喰えねぇし、すげぇ自分勝手なとこあるし。まあ結構駄目な大人の部類だよな」

「え…と…」

「恋次や石田は、アンタのことすげぇヤツだって云ってるけど、俺はいまいちピンとこねぇし」

「黒崎サン…フツーそこはフォローするところじゃないかと…」

「あァ?だって事実だろーよ」

眉間に皺、コメカミに筋を立てて、黒崎が凄む。

「否、確かにそうですけど…」

「けど?」

「イエ…そのとうり…」

「だろ?」

駄目な大人っぷりを羅列され、ここまで定義付けされては縮こまってしまう余地しかない。

寝転がったまま額に手をあてて自嘲を零し、浦原は「敵わないなぁ」と呟く。

「なぁ」

「ハイ?」

「アンタ以前、俺に戦闘機のコトならなんだって教えてやるっつったよな?」

「云いましたっけ?」

「テメェ…忘れたのか?俺がアンタの禁煙監督引き受けた時に、いっただろーが!」

誰のおかげでココまで順調に禁煙が成功してると思ってやがる。

黒崎は握り拳の中指を仰向けに転がった浦原の額にぐりぐりと押しつけた。

「イタイ!黒崎サンっ、それ痛いっス!」

「思いださねぇか?ああ?」

「云いました!アタシ確かに云いました、飛行機のことなら何でも答たげる、て!」

ううう、と額を押さえて浦原が黒崎を見上げた。

不敵な表情で教官を見下ろした訓練生は、まるで発令をするかのように尊大に言い放つ。

「じゃあ俺に実戦を教えろ」

「へ?」

「もっと、実戦に近い訓練をさせろって云ってんだ。アンタと、飛んでみたい」

予期しない申請に、眼を見張った浦原が何か言葉を発する前に「頼む…」と黒崎が口元を引き結ぶ。

未だ微かな幼さが残る顔に浮かぶのは一寸先のものとは違う、決意の表情。

「それは、アタシと模擬戦をしたい、てこと?」

「……無理か?」

黒崎の視線が浦原の左眼に留まる。

許可云々ではなく、その眼を案じる問いに浦原は薄く笑って瞼を閉じた。

「キミが、アタシを撃ち墜とすの?」

「撃ち墜とす」

真っ直ぐな声が降ってきて、その韻の強さに浦原は寝転がっているのに眩暈を感じた。

酩酊にも似た、そんな心地。

揺るぎない声で、そんなことを云わないで。

海の底に沈んだ空への未練が、小さな気泡みたいに湧いてきて駄目な大人の背中を押し上げる。

「駄目か?」

もう一度、黒崎が問いかけた。

「綺麗に、墜としてくれる?」

「あ?」

「イイエ、こっちの話。…そっスね、この左眼は丁度良いハンデかも」

「………なんかムカツク。すげぇ自信な」

期待の混じった呆れ声。

浦原は眼を開いて、頭上からコチラを覗き込んでくる黒崎に手を伸ばした。

「ね。黒崎サン、引っ張って」

「ったく、手の掛かる教官だな」

差し出された手を握って、黒崎が浦原を引き起こす。

繋がった手。

未だ命を屠ることを知らない、まっさらな腕が暗い海から浦原を空へと引き上げる。

どうかこの腕が、暗い海に沈んでしまわないように。

そうして何時か、自分を、今度こそ空へと墜としてくれますように。

ソファの上から引き起こされた浦原はそのまま反動で立ち上がると、繋がった手をほどいて黒崎の躯をぎゅっと抱きしめた。

肩のあたりで子供が、ひゅ、と息を呑んだ気配。

「ちょっ…、オイ!」

「覚悟して下さいね?」

耳朶に唇が触れるか否かという距離で、浦原は静かに囁いた。

ぴくりと跳ねた細い肩。

頬を掠めるオレンジの髪から、太陽の匂いがした気がした。

「じょ、上等だ!」

どん、と浦原の胸を押して顔を真っ赤にした黒崎が離脱。

「負けねぇからな!」

勝ち気な台詞とは裏腹に、まるで猫の子が毛を逆立てて威嚇してくるよう。

その様を、可愛いなぁ、と眺めながら嘗て『撃墜王』と呼ばれた男は「アタシだって、負けませんよ」と微笑んだ。

幸いにして教官であるその男の『大人気の無さ』は既に実証済みである。

 

 

 

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